碁吉会第2回箱根大会 身辺の整理ををしていて、新しい資料が見つかった。碁吉会第2回箱根大会の資料である。 高野圭介 |
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初回 「碁キチ大集合」 |
1990年に碁吉会が発足して今年は20周年を迎えた。 その20年前・・・最初の年、 1990年3月24.25日に、第1回の集まりは「碁キチ大集合」の名の下に、 山崎町・みつわ別館で催されたことは周知のことである。 |
第2回 「碁キチ大集合」 |
その秋、1990年11月23日〜25日に、第2回「碁キチ大集合」が 永山 隆さんの肝煎りで、箱根は函南町で催されていた。 参加者は、井原嗣治、阿曽嘉信、永峰一寿、井崎龍彦、田中政則、宮西孝次、 奥 喜代孝、竹田繁司、山田弘蔵、内田潤一、羽根義男、堀毛由夫、 高野圭介と世話人・永山 隆の14名であった。 碁吉会の名称も第2回箱根大会では「碁キチ大集合」で、それが「碁キチ会」となり、 更に「碁きち会」が「碁吉会」と変わっていったこともハッキリした。 |
囲碁観発表 | 当時、宴会時に「囲碁観発表」と称して、各自が碁に纏わるスピーチをした。 その記録を永山さまが克明に残されている。 その一部を紹介しよう。 |
高野圭介 | 「私は東レと共同特許を取って、布の碁盤からエクセーヌの碁盤に生まれ変わった。 その東レの瀬田寮で、昔、2回の碁会をやったことがある。 また、「棋道」の”碁狂列伝”の16人目として、 三木正の筆になる「高野圭介論」が記載された。 それを見て、何人かの人がお見えになったので、 私以上の碁キチがたくさんおられることが分かった。 |
これが伏線となって、この春、1990年3月に「碁吉憲章」が謳い揚げられた。 作成に当たって、原案では「賭け碁はしない」「面白いことは言っても良いが、 際どいことは言うな」とかがあったが、常識以前の問題として、除かれた。 |
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碁キチ大集合の骨格は出来たが、碁キチとは何か? 今後、どう展開してゆくか?を模索していたい。 山崎で、お開きの間際になって、 会長の無い会はないと、会長にさせられてしまいました。 本日は、永山さんの肝煎りによる2泊3日の楽しい会にしたいと思いますので、・・・・」 |
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永山 隆 | 永山 隆(今回、箱根の碁キチ大集合の世話人) 碁は余り強くないが、大学で潰れていた囲碁部を再建したり、 松下電産に入って、碁を教えて、150人の碁会を組織したり、 そういうキチガイで 不幸にして13年間国外追放になり、強くなる機会を逸したが、 英国では年4回あるある碁会で、一度優勝したことがある。 (永山さんは会、クラブ・・を作るのが上手だ・・・とは内田潤一の弁) ちょうどその頃、会長のご長男・雅永君が留学して来られ、 家に遊びに来られたのが碁縁で、山崎へお邪魔するようになった。 それが、碁吉会との繋がりであった。 本大会には山田弘蔵、内田潤一、羽根義男の後輩の三人を連れてきたので、 こちらの方で、レベルをご判断戴きたい。 |
堀毛由夫 | 堀毛由夫(人呼んで「ほとけの堀毛」) 「私は丹波篠山です。寮の舎監から碁の手ほどきを受けた。 シベリアにいた頃は白樺の樹皮で作った碁盤でよく碁を打った。 帰ってからも、碁キチで通していたところ、 兵庫県の大きな囲碁協会(今の緑の回廊囲碁協会)を作る時、 呼ばれて高野さんにお会いすることとなった。」 |
井崎龍彦 | 碁とのご縁は60年安保の頃、広島大学在学中、 執行委員とバレーボール部長を兼ねていて、遂に身体を壊して入院したときに始めた。 碁の世話になり、また、世話をしたり、碁が好きで、多くの人に普及したいと思っている。 碁は高級な遊びだから、楽しみながら打ったらいいと思っている。 囲碁教室では子供に怒ったことはない。 行儀のことでも余りうるさくは言わず、石の持ち方など、礼儀としてではなく、 「碁を打つとき、決めてから石を持てば、強そうに見える。」と、教えてやる。 つまり、その人に合わせて楽しさを一貫してやっている。 |
阿曽嘉信 | 「長年、高野会長には2目置いているが 、娘が高野さんとこの甥の嫁になり、一生頭が上がらなくなった。 45年ばかり碁を打っているが、 頭が悪くても4〜5段なら、田舎でも「えらい人」として上座にされ、 「先生」と呼ばれる。皆さんも自信を持って碁キチになって下さい」 |
井原嗣治 | 「阿曽さんは兄弟子で、今日は兄弟で出席している。 兄は役所のエリートだが、自分は自営業で泥臭い。 知り合った尾立保健所長に誘われて山崎の「楠風会」に入った。 楠風会は我々のような泥臭いい者にとっては高嶺の花だった。 そこに高野先生が居られた。それが今の「守拙会」の前身である。 高野先生は関西棋院40周年記念で、普及功労賞が設けられ、 アマでは只一人、高野先生が普及功労賞受賞第一番目に受賞された。 |
その時の、面白い話がある。 山崎のこの祝賀会に、 下関の田中正則、箱根の永山隆さんら、遠方から大勢来られた。 関西棋院 この事実に、家田隆二八段は「関西棋院も考えにゃあかんな」と言われた。 また、橋本昌二先生が「林海峰との対局の時に、 日本棋院からは大勢の人が来ていたが、関西棋院からは誰も来ていなかった。 つまり、関西棋院の先生方は総譜で研究するが、 日本棋院はその場で、次の一手を研究する。 碁に限らず、自分の仕事でも言えることだ。 人は今のやり方が完全だと思ってしまうものだ。」 |
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田中政則 | 「こんな楽しい会、次回は九州で、私がお世話をさせて戴きます。 どうぞよろしくお願いします。」 |